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今週の礼拝説教アウトライン 2026年9月20日

2022年11月20日
読了時間: 5分

更新日:10 時間前

 この説教の音声は本ホームページ「説教視聴」サイトで聴くことが出来ます。このアウトラインを合わせてぜひお聞きください。福音の説教の音声を聞くすべての人の上に祝福が豊かにありますよう、お祈りいたします。


2026/09/20 仙台南吉成キリスト教会 主日礼拝説教:主任牧師 銭谷幸器 

                            アウトライン

洗礼式「洗礼は必要か~水と御霊による救い」ヨハネ3章1~8節

Ⅰ.だれでも水と御霊によって救われる

 皆さんが「どんな人が救われるのですか?」と尋ねられたらどう答えるでしょうか。これは救いの条件についての問いです。この問いにどう答えるかでその人が救いの条件をどう考えているかが分かります。今、皆さんは自分が救われているかどうかわからなくなっていないでしょうか?もし分からなくなっているのであれば、救いの条件について確認してみる必要があります。


 自分の救いが分からなくなっていた人が聖書に登場します。それはユダヤの教師ニコデモです。ニコデモはユダヤの教えの通り、律法を守り行うことでやがて救いに至ると考えていました。しかし、老年になれば出来ていたことが出来なくなります。行いが減少すれば救いに近づくどころか遠ざかっているのではないか?彼は分からなくなり、イエスに聞きに来たのです。


 イエスの答えは「だれでも(ギリシャ語のティス)」(5節)でした。ニコデモは行いを行った人が救われると考えていましたが、イエスは彼に「だれでも」(5節)という言葉によって本当の救いを教えます。イエスは三つの「だれでも」を説きました。


①だれでも原罪がある。人は原罪を抱え、神と断絶して生まれてきます。相手がどんなに善行をしたとしても、そもそも赦せない相手の善行を喜んで受けることが出来るでしょうか。だから神と断絶したままでの善行は意味をなしません。

②だれでも十字架で赦される。しかしイエスは十字架で全ての人の全ての罪を赦しました。③だれでも水と御霊で救われる。この赦しをどうやって受け取るのでしょうか。御霊(聖霊)は福音により私たちにイエスを信じる信仰を創造します。そして洗礼を手段としてイエスの赦しを受け取るのです。人は水と御霊で救われるのです。信仰と洗礼の両方が必要です。宗教改革の後半になると「信仰は必要だけど洗礼は不要」と考える人たちが出てきました。しかし、これは奇妙な話です。なぜ片方だけいらないという結論になるのでしょう?

 私たちは医者を信頼して、医者の処方した薬を飲みます。医者を信頼していれば医者の指定した方法も信頼します。通常「医者は信頼しているけど、この薬は飲む必要がない」とは考えません。救いについても同様です。信頼するイエスが、信仰も洗礼も必要だと言われました。聖霊が与えた信仰に従い、洗礼を受ければよいのです。

 冒頭で「だれが救われるのか?」と問いを考えました。答えは「だれでも」です。誰もが水と御霊によって救われます。聖霊はどんな人にも信仰を創造することが出来ます(8節)。人を救うのは神です。人を救うのは神の業です。だから私たちの側の条件は関係ありません。どんな人でも救うことが出来る、だからイエスは神なのです。


Ⅱ.だれでも~大人も幼児も~水と御霊によって救われる

 この「だれでも」に幼児は含まれないのでしょうか?大人ばかりが水と御霊によって天の御国に入れて、子どもは指をくわえて見ていなければならないのでしょうか。イエスは「だれでも」と仰ったのではないでしょうか?

 「聖書に幼児の洗礼は出てこない」と頑張る方がおられます。しかし、実は、「幼児洗礼が聖書に出てこないことが幼児洗礼の根拠」なのです(初代教会は当たり前のように幼児洗礼を授けていましたが)。なぜ聖書に幼児洗礼が出てこないのか?理由は極めて簡単です。聖書は「大人の救いと子どもの救い」を区別していないからです。同じ方法~水と御霊~で救われるからです。

 お店を例にとればわかりやすいでしょう。大人と子供の料金が違う時「大人○○円、幼児○○円」と書くでしょう。しかし大人と子供の料金が同じなら「ひとり○○円」と書くはずです。大人と子供の区別がなければ書き方も一つです。

 聖書も同様なのです。大人と子供の救いが別物ならば「大人の救いは○△、子どもの救いは◇□」と書くでしょう。でも大人も子供も「だれでも水と御霊」で救われるから、幼児の洗礼という書き方をしないのです。

 幼児を洗礼から除外したり、認知症の方を救いの対象ではないと考える人がいます。しかし、この発想の背後にあるものは何でしょうか?もし幼児や高齢者が「聖書を理解できない」「意識的な信仰を持てない」というならば、それは救いに何らかの能力が必要と考えているからではないでしょうか。救いにはその人の資質や能力の何かが必要…そう考えていることになります。しかし、救いは神の行為です。私たちの資質や能力は一切関係なく、イエスが救ってくださる。これが分かれば幼児も認知症の方々も信仰を持つことが出来ると分かります。聖霊は神です。聖霊はどんな人にも信仰を創造することが出来るのです。

 

 今日、ニコデモの迷宮に迷い込んでいなかったでしょうか?自分で自分を救わなければならないと思っていなかったでしょうか?そして自分は救いの外にいると考えていなかったでしょうか?「だれでも」水と御霊によって救われます。イエスを信じて洗礼を受けた皆さんへ、あなたは救われています。安心してください。あなたを救ったのはイエスです。あなたに信仰を創造したのは聖霊です。あなたが受けたのはイエスが制定した洗礼です。あなたの救いはいささかも動いておらず、あなたの救いに欠けているものは何もありません。今、自分の能力や資質、出来る/出来ないに目を留めていなかったでしょうか?自分から目を離して、水と御霊に目をとめましょう。


 最後の「だれでも」はプロテスタント教会についてでです。だれもが救われ、救いの確信を持てるのがプロテスタントの教会です。イエスによる救いを掲げるのが私たちの教会です。プロテスタントの元祖、ルター派の教会としてこの「だれでも」を掲げましょう。救いの確信を持っていない人が誰もいない教会、それが私たちの教会です。皆でこの本物のプロテスタント教会の旗をより高く掲げ、この仙台の街に堅く立っていきましょう。






 
 
 

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