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プロテスタント教会とは?~教会を探している方々へ~ 

更新日:1月8日


 「教会に行ってみたい」このように考えて下さっている方の存在を心から感謝いたします。教会に行ってみたいと思った方がまず考えるのは「カトリックにしようか?プロテスタントにしようか?」ということだと思います。そこで、ここでプロテスタント教会とは何かについて簡単にまとめてみたいと思います。


Ⅰ プロテスタント教会とは~全員が救いの確信を持つことが出来る教会~

 プロテスタントの教会はどんな教会ですか?この質問に一言で答えるとしたら「全員が救いの確信を持つことが出来る教会」ということが出来ます。


 中世のヨーロッパは、「死」の問題を抱えていました。教会の長い歴史の中で、洗礼を受けた後に犯した罪は自分で償わなければならないという教えが生まれていたのです。自分の罪の償いを終えずに死んでしまった人はどうなるのでしょうか。いつからか煉獄(生前の罪を浄化する場所)の教えが始まり、生きている間に自分の罪の償いを終えることが出来なければ煉獄で何万年も苦しんで魂が浄化されなければならないという教えになっていました。

 ここに免罪符(贖宥状)が登場します。生前に自分の罪の償いを終えて、さらに善行を余らせて死んだ聖人たちがいる。その聖人たちの余剰善行を分けてもらい、自分や家族の罪の償い分を補填出来る・・・その保証書が免罪符(贖宥状)です。これを購入すれば、煉獄の苦しみから解放される。人々は死の問題から逃れるために免罪符に飛びつきました。


 しかし、これに異を唱えたのがマルチン・ルターです。私たちが救われるのは、私たちの行為ではなく、キリストの行為によるのではなかったのか?罪の償いの行為、聖人の行為、免罪符の購入による救いには「キリスト」が出て来ません。もし自分たちや聖人の行為やお金で救われるなら、キリストは何のために十字架にかかったのか。私たちの行ない云々に関係なく、ただ神の側でキリストを与え、キリストによって私たちを救うことにした。それだけが救われる理由ではないのか。このことに気が付いたのがマルチン・ルターだったのです。人間は救いに全く貢献しない、出来ない、する必要が無い。ただキリストの行為のみによって救われる。ルターは「福音」を再発見したのです。この福音は燎原の野火のようにヨーロッパに広がっていきます。こうしてプロテスタントの教会が誕生しました。


 ただキリストによって救われるのだから、赤ちゃんも、高齢者も(もちろん認知症の方々も)、障がいがある人、寝たきりで動けない人も、今死にゆく人も、金持ちも、貧しい人もどんな人でも救われる。このような救いを再発見した教会がプロテスタントの教会なのです。私たちが救われるために、わずかでも人間の行為や決断、準備、努力が必要だという教えをまぜた瞬間にプロテスタント教会の本質は失われます。どんな人も救われるし、どんな人も「キリストのゆえに」救われているという確信を持てるのがプロテスタントの教会なのです。ルターの時代の人は驚きました。死んでも煉獄を経ないで、直接天国に行けるというのです。


 プロテスタント教会とは、「キリストによって救われるのだから私も間違いなく救われる」このような確信を全員が持つことが出来る教会なのです。


Ⅱ 5つの「のみ」~聖書のみ、信仰のみ、恵みのみ、キリストのみ、神にのみ栄光あれ~

 このルターたちが聖書から再発見した救いの原則は、分かりやすい言葉にまとめられていきます。それがプロテスタントの旗印とも言うべき「5つの『のみ』」です。

 聖書のみ   Sola Scriptura

 信仰のみ   Sola fide

 恵みのみ   Sola gratia

 キリストのみ   Sola Christus

 神にのみ栄光あれ Soli Deo Gloria


 簡単に解説をいたします。

聖書のみ Sola Scriptura ・・・ただ聖書だけが救いの真理を教えています。当時、ローマ・カトリック教会の教皇の言葉が聖書と同等の権威を持ってしまうことがありましたが、聖書は絶対の神のことばであり、人の言葉とは並びません。救われるための知識は聖書のみで十分です。


信仰のみ Sola fide・・・私たちが救われるための手段は信仰だけです。あらゆる行ないは不要です。信仰とは贈物を受け取る空っぽの手のことです。神が差し出してくださった「キリスト」を受け取れば救われます。お金や善行、立派な人格を「差し出す」手は不要です。さらに、贈物を受け取りたくならせるのも神です。だから、信仰は私たちが自分で創り出すものではなく、神の贈物です(エペソ2章8-9節)。


恵みのみ Sola gratia・・・私たちが救われた理由はただ「恵み」です。すなわち、私たちの側に救っていただける魅力や価値があったのではなく、ただ神の側で一方的に救うと決めて下さったのです。受ける資格が無い者が、与える側の一方的な決定により、莫大な贈り物を受けてしまうことを恵みといいます。私を救うことは神の側で一方的に決めたことです。


キリストのみ Sola Christus・・・以上のことをまとめて、「キリストのみ」と言います。ただキリストの功績によって救われるのであり、私たちの能力や魅力、資質や功績はまったく救いに貢献しません。自分を見れば罪深く、救われている確信を失います。でもキリストを見れば、キリストなら私をも救えると確信できます。


神にのみ栄光あれ Soli Deo Gloria・・・だから神だけに栄光を帰します。オリンピックの金メダリストはその努力と勝利を讃えられるでしょう。行為のなした者に栄光が帰されるのです。私たちを救ったのが私たちならば、「頑張ったあなたに栄光あれ」と私たちに栄光が帰されます。神と私たちの両方が救いのために頑張ったのなら「神と人に栄光あれ」になります。しかし、ただキリストの行為によって救われたのであれば、「キリストを与えて下さった神にのみ栄光あれ」となります。だからプロテスタント教会では、人が栄光を帰されることはないのです。


Ⅲ 神に信仰、隣人に愛~「キリスト者の自由」~

 こうしたルターの教えに対してローマ・カトリック教会から反論が出てきます。「信仰によって救われるなら、なぜ聖書には膨大な『行いの教え』があるのか。それは行ないも救いに必要だからではないか?」。これに対して、ルターが反論します。

 プロテスタント教会は行いは全く必要ないと教えるのでしょうか。答えは、「救われるための行ないは不要。しかし『救われたゆえの』行ないは必要」ということです。

 

 これをルターがまとめたのが有名な「キリスト者の自由」(1520年)です。神との関係は信仰。隣人との関係は愛。これがプロテスタント教会における「信仰と愛」の関係です。

神はキリストを与えて下さいました。このキリストを信じるだけで救いは私たちに与えられます。すなわち、「神への愛」によって救われるのではありません。私たちの愛によって、神の愛を買わなくて良いのです。神との関係は信仰だけで充分です。しかし、神に愛された者は誰かを愛したくなります。しかし、神は満ちたりたお方なので、神は私たちの助けを必要としません。私たちの助けを必要としているのは神ではなく「隣人」です。だから、キリスト者は、喜んで、自由な意志で、隣人を愛するのです。「神に愛された」という動機で、神が愛している隣人を徹底的に愛するのです。こうして私たちの生活は、神を礼拝し(信仰)、隣人を愛する(家庭と社会と教会の三つのフィールドで)生活になっていきます。


 だから、救われるために頑張っている人は誰もいない。だけど隣人を助けるためには誰もが非常に熱心に頑張っている。これがプロテスタント教会の「行ない」です。

 

Ⅳ プロテスタントの神髄~信徒の聖書と呼ばれた「ルター小教理問答書」(1529年)

 このプロテスタント教会の信仰と生活を分かりやすくまとめたものがあるでしょうか。それが「ルターの小教理問答書」(1529年)です。ルターが宗教改革を進める中で、民衆の悲惨が見えてきました。中世の教会はラテン語でミサが持たれており、民衆は教会で行われていることの意味が分からず、聖書のことも、キリストのこともほぼ「ゼロ」の状態だったのです。

 

  そこで、民衆が聖書の教える信仰と生活を知るためにルターがまとめた書物が、ルターの小教理問答書(カテキズム)です。当時、ルターの長男ハンス君が幼く、家の中で「これなあに?」という言葉を頻繁に口にしていました。ルターはここからヒントを得たようです。まるでお父さんが子供の「これなあに?」という質問に答えるような問答形式で、信仰と生活の基礎についてまとめていきます。ルターは膨大な著作を残していますが、この小教理が最高のものだったと言っています。そして、他の書物がすべて焼かれるとしてもこの小教理問答書は残したいと言っています。


 聖書とルター小教理問答書の関係は「花と蜂蜜」に例えらえます。聖書と言う美しい花の花粉(エッセンス)をルターという働きバチが丁寧に集め、小教理問答書という蜂蜜にまとめた。小教理問答書は、聖書に関係なくつくられたものではありません。花に関係なく蜂蜜が出来ることがないように、聖書のエッセンスを丁寧にまとめた「要約」が小教理問答書なのです。

 この小教理問答書は、当時あまりにもわかりやすく、驚くべき勢いで普及していきます。そして「やさしい聖書」「信徒の聖書」とまで言われるようになりました。


 本来のプロテスタント教会の信仰と生活を学びたければ、ぜひこの「ルター小教理問答書」を開いてみてください。


Ⅴ プロテスタント教会の名前の由来

 では最後に、「プロテスタント教会」の名前の由来をご紹介いたします。

1526年シュパイエルの帝国議会でルター派に改宗した領主たちは、神聖ローマ帝国皇帝が教皇に教会会議を開催させることがない限り、自分の領地内でいかようにも宗教政策を執行できる権利が認められました。つまり、自分の領地内で「5つののみ」の教えを民衆に伝えあることが出来たのです。

 ところが、1529年の第二シュパイエル帝国議会で、ローマ・カトリック教会に忠誠を誓う領邦領主たちは三年前の帝国議会でルター派が獲得した権利を覆すことに成功します。この時に、ルター派の領主たちは怒り、抗議文”Protestio”を提出して抗議します。このことから、プロテスタント教会(Protesutants 抗議する者たち)という名前が付きました。



Ⅵ ようこそプロテスタント教会へ~プロテスタントの元祖、ルター派の教会~


 私たち仙台南吉成キリスト教会はプロテスタント教会のはじまりの教会、元祖の教会であるルター派の教会です。私たちの教会は、宗教改革の遺産~5つののみ~を大切に保ってきています。具体的には、上述の「ルターの小教理問答書(1529年)」とプロテスタント教会の教えを最初にまとめて公になった信仰告白「改訂されないアウグスブルク信仰告白(1530年)」を、聖書の正しい要約として認め、告白している教会です。いうならば、宗教改革の教えをそのまま500年保存してきた教会です。


 プロテスタントの教会をお探しの方、それも宗教改革の最初の教えのプロテスタント教会をお探しの方は是非、当教会にご連絡ください。

 当教会に通いたい方、聖書の学びをしたいという方、洗礼を受けることを希望する方、他教会から当教会に移りたいという方のために、牧師がマンツーマンで「ルター小教理問答書(カテキズム)」の学びの時間を取らせて頂きます(主任牧師の専門研究分野が「小教理問答書」で、神学修士論文を書いています)。マンツーマンですので、学ぶ方の生活の関心事や悩みに寄り添いながら、信仰と生活の形成を目指して学びを進めます。個人的な悩みについてもぜひお話しください。実生活や自分の心から離れた学びにはあまり意味がありません。魂が養われるのが真の学びです。マンツーマンですので他の人を気にすることはありません。胸のうちにためておかず、牧師にお話しください(秘密厳守)。そして、カテキズムの学びの中で新しい光が与えられるはずです。単に知識の学びではなく、魂に寄り添う学びを心がけています。またマンツーマンなので、分からないところは立ち止まり、あくまでも学ぶ方に合わせて進んで参ります(一回の学びは60~90分。もちろん無料です)。


 洗礼を希望される方は、学びのペースにもよりますが、半年から2年かけて小教理問答書を学び、信仰と生活を学んでいきます。そして確実に救いの確信を得て、洗礼を受けることが出来ます。


 プロテスタントの教会に通いたい方、洗礼を希望される方、学びをご希望される方、心からお待ちしています。皆様とお会いできることを心待ちにしております。


                日本ルーテル同胞教団 仙台南吉成キリスト教会

                      主任牧師 銭谷幸器

                     (神学修士 M.div., Th.M.)

 



ルターローズ(ルターの薔薇の紋章)




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