この説教の音声は本ホームページ「説教視聴」サイトで聴くことが出来ます。このアウトラインを合わせてぜひお聞きください。福音の説教の音声を聞くすべての人の上に祝福が豊かにありますよう、お祈りいたします。
2025/01/12 仙台南吉成キリスト教会 公現節 主日礼拝説教:主任牧師 銭谷幸器
公現節「すべての王が彼にひれ伏す」詩篇72:10~15 アウトライン
Ⅰ 礼拝とは?~私のために戦って下さる王イエスに信頼する~
皆さんが小さな子どもに「どうして礼拝に行くの?礼拝って何をするの?」と聞かれたらどのように答えるでしょうか?神の御子イエス様がお生まれになった時、東方の博士がやってきて礼拝をしました。注目すべきは彼らがイエスに「ひれ伏して拝んだ」(マタイ2章11節)ことです。ひれ伏すということは、相手が自分の上にいることを認めることです。つまり自分に関する権利の一切を明け渡すことです。礼拝はその心の態度を本質としているのです。しかし、ここに難しさがあります。果たして私たちは「一切」を明け渡すことが出来るでしょうか。多くのキリスト者が自分に関することの「全て」は委ねきることが出来ないという葛藤を経験します。そしてその自分を「不信仰」だと断罪することがあるのです。しかし、東方の博士の礼拝をもう少し詳細に見つめてみると見えてきます。なぜ東方の博士は、イエスに自分の権利の一切を委ねることが出来たのでしょう。その答えが詩篇72篇です。詩篇72篇はソロモン王が理想の王について歌った詩篇だと言われます。ここに登場する理想の王は、やがて生まれて来るイエスのことです。その王なるイエスのところに異邦人の王がひれ伏す、黄金を携えて礼拝に来る様が描かれています(10節、15節)。彼らがひれ伏す理由は、この王イエスが公正な王だからです。すなわち、他者に踏みつけられ、他者にその人生を砕かれた者を放っておけず、彼らのために戦って下さる王だからなのです。イエスにひれ伏す前提は、実に「信頼」なのです。イエスが暗闇の力に圧迫された人々のために行動を起こし、戦って下さるお方である。このことを信頼してひれ伏すのが礼拝なのです。礼拝とは、漠然と、よく分からないまま委ねるということではないのです。イエスが自分のために戦って下さる方、こんな王様だから明け渡すことが出来る、その信頼こそ礼拝の本質なのです。ルターは礼拝の本質をとらえ「神を畏れ、愛し、『信頼』すること」と定義しました。
Ⅱ 礼拝堂とは?~王イエスのもとで安心を得る時間と空間~
イエスはあなたのために戦って下さる王です。そのイエスに信頼しているあなたは紛れもない真の礼拝者です。当教会は年次総会の季節を迎えました。新礼拝堂の建築が私たちの目の前にあります。礼拝堂とは、自分のために戦って下さるこの王イエスにまみえる時間と空間です。礼拝に来た人々が、自分のために王イエスが戦って下さるという安心を得られる。そんな礼拝堂を皆で建て上げましょう。。
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