先週の礼拝説教アウトライン 2026年5月17日
- minamiyoshinari415
- 2022年11月20日
- 読了時間: 5分
更新日:14 時間前
この説教の音声は本ホームページ「説教視聴」サイトで聴くことが出来ます。このアウトラインを合わせてぜひお聞きください。福音の説教の音声を聞くすべての人の上に祝福が豊かにありますよう、お祈りいたします。
2026/05/17 仙台南吉成キリスト教会 主日礼拝説教:主任牧師 銭谷幸器
ヨハネ福音書5章1~9節 アウトライン
世界宣教「ベテスダの池~イエスはこの世にどう関わるのか」
Ⅰ.ベテスダの池~この世の縮図~
中学生の時に職業調べの宿題が出ました。職業を考えるかたちで「この世界にどう関わったらいいのか」を考えるとてもいい機会になりました。私たちはこの世界に生きています。私たちは何のためにこの世界にいるのでしょうか?どのようにこの世界に関わったらいいのでしょうか?その答えは私たちの主であるイエスにあります。イエスがこの世界にどう関わったのかが分かれば、キリスト者としての私たちのこの世への関りも見えてくるでしょう。イエスがこの世にどう関わったのか?使徒ヨハネは記しています。ある時、イエスはベテスダの池に行きました。ここには医者も家族もどうすることもできなかった病人や障がい者のコミュニティーが出来ていました。天使が池に降りて来て水が動いた時に、一番に飛び込んだ人は癒されるという伝承があったのです。人々はこの池に最後の望みをかけていたのです。しかしこれほど残酷な場所があるでしょうか?見捨てられた人たちが「自分が治るために他人を蹴落とさなければならない」という競争社会がここに生まれていたのです。捨てられた痛みを持つ者同士がいたわりあうのではなく、その人たち同士が蹴落としあう社会です。さらにイエスはこの中でも最も勝ち目のない人に声をかけました。38年もの間、臥せっている人に声をかけたのです。彼は驚きました。もはや誰も彼に興味は示さなくなっていたでしょう。しかし、今日、声をかけてくれた人がいたのです。彼は自分の物語を話します。そして、彼の物語は終着点に至りました。彼の結論は断罪です。彼は二つの断罪を抱えていました。①自分を救えない自分への断罪です。そして②その自分を救ってくれない他人を断罪したのです。自分を裁くか、他人を裁くか…ここが私たち人間の終着点ではないでしょうか?ここから先にはいけません。話の結論は、自分がダメだから、周りがダメだから。もうこの先はないのです。ベテスダの池はこの世の縮図ではないでしょうか?皆さんの周囲は愚痴を言っていないでしょうか?問題を解決できない自分を断罪している。もしくは隣人を断罪している…これがこの世界の姿なのです。
Ⅱ.イエスは今日もベテスダの池に行く
イエスはこのベテスダを目指すお方です。そして今もイエスは同じくベテスダを目指しておられます。イエスは復活し、今も生きておられます。そして今日もベテスダの池に赴くのです。すなわち自分を断罪し、隣人を断罪せざるを得ない人々を救うためにベテスダへ。これがイエスなのです。イエスはベテスダの池を使わないで、ご自分に頼らせてこの人を救いました。ベテスダの池以外に解決はないと思っていた彼に全く違う救いを描いて見せたのです。イエスは今日も私たちに第三の選択しを与えます。この世は①自分で何とかするしかない。②もしくは誰かに助けてもらうしかない。しかし、そのどちらも破れてしまうことがあるのです。そして自分と隣人を断罪せざるを得ない…その人にもう一つの道を示します。それがイエスに信頼する道です。
今日、あなたは自分を断罪していなかったでしょうか?あるいは他人を断罪していなかったでしょうか?イエスはあなたに語ります。「床を取り上げて歩きなさい」。私たちは立ち上がってよいのです。立ち上がることが出来るのです。自分を断罪し、隣人を断罪している。そのことに終始している自分。その自分をやめる自由があるのです。イエスが私のために行動してくださいます!だから、もう自分も他人も責める必要はありません。自分と隣人を断罪するより仕方がない、その生き方そのものをやめさせてくださるのです!今日、あなたも自由になることが出来ます!
そして、立ち上がった先は、あなたもベテスダの池に行くのです。イエスは今日もベテスダの池にたたずむ人を助けようとします。すなわち、自分と隣人を断罪している人を救おうとします!そして、立ち上がったあなたと一緒にそれをしたいのです!
今日、「この世界になぜ自分がいるのか」考えました。この世界~ベテスダの池~にはあなたを必要とする人がいます。自分と隣人を裁く以外にどうしようもない人、あなたしか救うことが出来ない人がいるのです!だからあなたの存在は決してむなしいものではないのです。あなたの周囲に自分と隣人の断罪に終始している人がいるでしょうか?その人のところに行きイエスを示す。これが宣教です。宣教は特別なことではありません。私たちの日常の中の出来事です。遠い外国にいくことだけが宣教ではないのです。生活の中で、自分と隣人の断罪者に第三の選択しを示す、すなわち私たちに近づき給うイエスを伝える。これが宣教なのです。あなたの、あなたにとってのベテスダはどこでしょう?家庭?教会?社会?ぜひイエスと共にベテスダの池に参りましょう!




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