今週の礼拝説教アウトライン 2023年4月2日 銭谷幸器
更新日:6 時間前
この説教の音声は当ホームページの「説教視聴」サイトで聞くことが出来ます。このアウトラインを合わせてぜひお聞きください。説教を聞くすべての人に福音の恵みが豊かにあるようにお祈りしております。
2023/04/02 仙台南吉成キリスト教会 主日礼拝 説教:主任牧師 銭谷幸器
受難週「キリストとは誰か」ガラテヤ3:13 アウトライン
Ⅰ キリストは「のろわれたもの」
私たちには「分かっていそうで分かっていなかった」事々があると思います。実は、キリストとは誰なのか。これを分かっていそうで分かっていなかった人たちがガラテヤ教会なのです。ガラテヤ教会はユダヤの偽教師に騙されてしまいます。ユダヤの偽教師は「主イエスを信じるだけでは十分ではない、それに行いを加えなければならない」と教えたのです。使徒パウロはこの間違いからガラテヤ教会を救うために十字架の話をします。キリストとは誰でしょうか。パウロはキリストが「のろわれた者」であったといいます。これはどういうことなのでしょう。「律法ののろい」とあるように、神の律法においてのろわれたということです。誰でも「もしこの人がこれをしたらこの人との関係は終わりになる」という基準を持っているはずです。それは神も同じです。その基準が律法です。キリストは、神の基準を侵し、神との関係が終わったもの―のろわれた者―となったというのです。
Ⅱ キリストは『私たちのために』のろわれたもの
ここで一つの疑問が生じます。キリストは全く罪を犯すことが無かったはずです。そのキリストがなぜ呪われたのでしょう。確かにキリストは罪を犯しませんでしたので、のろわれる理由はありません。パウロは記します。キリストは自分自身のせいでのろわれたのではなく「私たちのために」のろわれたのです。キリストは私たちが神の律法を犯したことを一人で引き受けて下さったのです。キリストは私たちの代わりに不信仰者となり、親不孝者となり、嘘つき、殺人者、嫉妬深い者、卑怯者、裏切り者になって下さったのです。キリストは全人類の全部の罪を背負い、人類史上最悪ののろわれた者となって下さったのです。キリストが私たちのために神にのろわれて下さいました。そして神に捨てられてくださいました。だから今、あなたは神にのろわれていません。キリストのゆえに神はもうあなたを怒っておられないのです。あなたは救われています。キリストがのろわれた者になったと分かるなら、私たちは神ののろいを回避するための何かを付け加えなくて良いのです。今日、十字架の意味が分かっていそうで分かっていなかった「ガラテヤ教会」の状態から自由になりましょう。キリストによって完全に救われていることを喜びましょう。そして隣人に「キリストとは誰か」と聞かれた時に、「私のために呪われて下さった方」と澱みなく答えることが出来る希望の弁明の準備をしておきましょう。
〔3月26日「不条理への勝利者③」のアウトライン〕
2023/03/26仙台南吉成キリスト教会 主日礼拝 説教:主任牧師銭谷幸器 アウトライン
「不条理への勝利者③~不条理への召命」Ⅰペテロ2:18-25
Ⅰ 不条理への召命
この世界に生きる限り不条理を避けることは出来ません。では、どのようにしたら不条理に打ち勝っていく生き方が出来るのでしょうか。使徒ペテロは「召命」という観点から不条理を捉え直すことを教えます。苦しみに「召された」、苦しむために「選ばれた」という新しい捉え方を教えているのです。
使徒ペテロの時代、ローマ帝国の多くの奴隷たちが信仰を持ちました。当時、奴隷は「人」ではなく「財産・物」として扱われていました。しかしキリスト教が広まるにつれて、彼らは「神に愛されている『人』である」という認識が広まります。それまで、奴隷をどのように扱おうが主人の自由でした。「不当」な扱いではなかったのです。ところが、キリスト教が広まり、奴隷も神に愛されている人間だと認識されます。すると主人たちの意地悪な振る舞いは「不当」だという認識が広がります。この不当な扱いにどう立ち向かったいいのか、これが大きな課題になったのです。悪くないのに悪者にされる。悪くないのに虐げられる。この不条理は今日も存在する問題です。権威あるものによる不当な抑圧。これは時代と場所を超えて私たちにも通じる問題でもあります。使徒ペテロは、奴隷たちに使徒ペテロは不条理を忍ぶように勧めます(20節)。どうして忍ばなければならないのでしょうか。不当と分かっていることに対して耐えなければならないとはどういうことでしょう。
その理由をペテロは述べます。私たちは神の元に帰ることが出来ました(25節)。それはキリストが十字架で苦しんで下さったから、私たちの罪を十字架で赦して下さったからです(22~24節)。実に神の良い御心は苦しみの中で進むのです。神の良い御心は苦しみの中で進むのですから、誰かの苦しみが必要です。だから私たちが必要とされたのです。神はキリストの苦しみを通して良い御業を進めていたように、私たちの苦しみを通して良い御心を進めようとしておられるのです(21節)。だから、私たちは苦しむために召されたと言えるのです。
私たちの幸せというものは誰かが私たちを幸せにしようと労してくれたこと、犠牲を払ってくれたことによって与えられています。私たちを幸せにしようと犠牲を捧げて下さった方がいたから幸いを得ているでしょう。イエス様の苦しみも同じなのです。なぜ私たちは救われたのでしょう。神と和解させられ、罪赦されて、終わらないいのちを得たのでしょう。キリストが苦しんで下さったからです。私たちの救いはキリストの苦難を通してもたらされました。今度は私たちの苦難を通して誰かを祝福しようと神は考えておられるのです。今日、不条理に苦しんでいたでしょうか。皆さんの通った不条理は決して無意味なものではありません。神はあなたの苦難を通して誰かを祝福したのです。
Ⅱ まとめ~不条理への勝利者になる~
私たちは不条理への勝利者に召されています。何をもって勝利というのでしょうか。それは小さなキリストになることです。キリストは苦難を受け入れ、それを人間の祝福に変えていきました。私たちキリスト者も苦難を受け入れ、打ち負かされるのではなく、それを他者の祝福と変えていく。それが勝利なのです。それは単なる泣寝入りとは違います。神は悪を正しく裁きます(23節)。不条理を行ったことについて神は正しく裁きます。だから相手を裁くのは私たちの仕事ではないのです。私たちの役割は、「忍ぶ」ことです。悪を裁くのは神の仕事、悪に耐えるのは私たちの仕事です。不当な苦しみを受け入れて、その苦しみの中で神の良い御心が進むことを信じていく。これが小さなキリスト、すなわち勝利者の姿なのです。私たちは、不当な苦しみにあうと、いかに自分が正しいか、いかに自分が悪くないか、いかに相手が悪いのかを周囲に訴え、分かってもらうことに力を費やすかもしれません。しかし、これは勝利者の姿からは程遠いものです。不条理を受け入れ、それを他者の幸いと変えていくことのなかに本当の勝利があります。
大航海時代、新大陸でトマトが発見されました。当時、トマトは危険な食べ物、食べれば死ぬと考えられたようです。ある時、海軍の将校が町の人々を集めました。そして皆の前でトマトを食べるというのです。群衆が固唾を飲んで見守る中、彼はトマトを食べました。彼には何も起こらず、彼はそこに立っていたのです。彼は、自分の中にトマトを入れることで自分の方が強いことを証明しました。トマトを食べることで、トマトに打ち負かされない自分であることを示したのです。
私たちキリスト者も苦難を受け入れてみることです。そして受け入れてみることで、私たちが苦難に打ち負かされるどころが、苦難を他者の幸せに変えてしまうことを示すことが出来るのです。このトマトを食した将校のように苦難を受け入れてみましょう。そしてそれに打ち勝った姿を示しましょう。周囲は「ああ、クリスチャンは苦難に打ち負かされないのか、むしろ苦難を他者の祝福としてしまう!」このようにいうならば素晴らしいことです。
私たちが不条理に苦しむとき、それが他者の祝福のために用いられます。そうであるならば、苦しむこと自体が隣人愛と言えるでしょう。私たちは自分に隣人愛が欠けていると嘆きますが、誰もが不当な苦しみと戦っています。それはすなわち、私たちはすでに苦難をしのぶことで隣人愛に生きていると言えることなのです。自分に愛がない、隣人愛が欠けている、と過度に自分を責めすぎないことです。あなたの苦しみも神は用いています。ぜひ小さなキリストとなって苦難を受け入れ、神の良い御心に仕えましょう。
〔3月19日「不条理への勝利者②」のアウトライン〕
2023/03/19 仙台南吉成キリスト教会 主日礼拝 説教:主任牧師 銭谷幸器
「不条理への勝利者②~不条理の支配」ヨハネ18:1-6 アウトライン
Ⅰ 不条理に支配された人類(復習)
この世界に生きていく時、避けられないのは不条理の問題です。単に不条理について知るだけではなく、具体的に不条理を乗り越えていく、いわば勝利をするにはどうしたらいいのでしょうか。不条理は避けられませんが、これに打ち勝っていくことが出来たらどんなに幸いでしょうか。
聖書は不条理の原因が人間の「罪」にあることを教えています(創世記3章)。罪の責任を問われた最初の人間アダムは、神に責任転嫁をします。一番悪くない神が一番悪いことにしたのです。こうしてこの世は不条理の場となりました。この不条理に対しての神の答えは「キリスト」でした。神は自分を悪者にしてきたアダム(人間)に、キリストを与えることで応えたのです。このキリストは不条理の問題にどう向かい合ったのでしょうか。
Ⅱ 不条理を支配する神―エゴー・エイミー(私はある)―
主イエスも不条理の問題に直面します。主イエスの人気が高まるとユダヤの上層部はイエスを亡き者にしようと画策しました。彼らは知恵を絞り、ついにイエスを逮捕するところまで漕ぎつけました。ところが主イエスを逮捕しに来た兵士たちは、主イエスの威厳に気圧されて倒れてしまいました(ヨハネ18章)。ここには重大なメッセージがあります。兵士が倒れた。すなわち、それは主イエスの方が知恵と力でユダヤ人たちに優っていたということです。主イエスがユダヤの上層部よりも知恵と力において敗北して逮捕されたのではありません。イエスは「あえて」「わざと」逮捕されたと考えなければならないでしょう。
いわば主イエスには不条理は通じなかったのです。「ナザレ人イエスを」と探す兵士たちに、主イエスは「それはわたしです(エゴー・エイミー)」(5節)と答えました。かつて神がモーセに自己紹介をしたときに「私は有るというものである(ヤハウェ)」という名を明かしましたが、この「エゴー・エイミー」は「ヤハウェ」同じ意味です。つまり、主イエスは「自分は絶対神である」と相手に宣言したことになります。その威厳に兵士たちは気圧されたのです。主イエスは神です。人間の悪だくみに負けるような方ではないのです。むしろ人間の悪い策略をも支配し、自分の目的のために使うことが出来るのです。だから主イエスは自分が悪くもないのに逮捕されたことを逆に使ってしまいました。主イエスは相手の不条理にあえて乗り、十字架にかかり、実に罪の赦しの御業を成し遂げてしまったのです。主イエスは不条理の上にいます。不条理を制御できる方です。主イエスはこの世の不条理に支配されるどころか、不条理を支配して、それをご自分の善き目的のために利用することが出来るのです。
皆さんは初めて注射を受けたときのことを覚えているでしょうか。私も記憶があります。注射。何のために人間の体に針を刺すのだろう。そしてあの液体は何だろう。子供ながらに不思議でした。皆さん、ご存じの通り、注射によってわずかな病原菌を体の中にいれます。そうすることで免疫が高まったり、抗体が出来るのです。わずかな毒を使って、逆に私たちの健康を増進してしまう。注射を考えた人はすごいと思います。ここでひとつの質問です。病原菌と注射を考えた人。どちらが上でしょうか。病原菌は危ないといって触れないのではなく、病原菌について知り尽くしてそれを自分の目的に利用してしまう…注射を考えた方は病原菌の上にいるでしょう。主イエスもこの話と似たようなお方です。なぜ神がおられるならこの世界に不条理があることを許しているのでしょう。不条理が私たちキリスト者をも悩ませることを許可するのでしょう。主イエスは、不条理の上におられるからです。主イエスはヤハウェ、全能の神です。主イエスは人間が生み出す不条理をご自分の善い目的のため、私達人間の幸いのための使うことがお出来になるのです。
今日の聖書箇所…兵士に囲まれても堂々としており、神の威厳で相手を倒してしまう神の御子をご覧ください。この神の余裕、この神の自信。主イエスはこの世界の不条理を私たちの益に変えることが出きるのです。今日、不条理に苦しんでいなかったでしょうか。「なぜ私が悪いことになっているの?」「私のせいなの?」と魂が苦悩していなかったでしょうか。主イエスはそのあなたを悩ませる不条理をあなたの益に変えることが出来ます。
私たちは不条理を受けた時、人にそれを話します。そして自分がいかに正しいか、相手がいかに悪いかを訴えて分かってもらおうとします。しかし、不条理を愚痴ってみたり、不平不満を口にしてみたり・・・それを人に話したからといって何になるのでしょう。一時の慰めはあるかもしれませんが。主イエスは私たちが不条理に支配されることそのものから自由にしてくださいます。圧倒的な力、ヤハウェの力を持って私たちを不条理のくびきから解放して下さるのです。もう不条理に支配されなくて良い、これが福音です。主イエスに信頼するあなたも主イエスと共に不条理の支配者、勝利者になれます。
皆さんの隣人も不条理に苦しんでいないでしょうか。不条理は罪の問題です。だから罪人が自力で抜け出すことは難しく、外から助けてもらう必要があります。私たちは私たちを不条理から救うことが出来る唯一の肩をしっています。ぜひその人のことを主イエスにとりなしましょう。またその勝利に与ることが出来るように支えましょう。
〔3月12日「不条理への勝利者①」のアウトライン〕
2023/03/12 仙台南吉成キリスト教会 主日礼拝 説教:主任牧師 銭谷幸器
「不条理への勝利者①~不条理の起源」創世記3:8-15アウトライン
Ⅰ アダムは神を悪者にした
ある人が交差点に立っていたら自転車が突っ込んできたそうです。そして、この自転車に乗っていた人がいいました。「なんでこんなところに立っているんですか?」。ぶつかってきた方がぶつかられた方を悪者にしたのです。この世界に生きる時に必ず直面する問題があります。それは「不条理」の問題です。皆さんも悪くないのに悪者にされた経験があるのではないでしょうか。人生の中で、悪くないのに悪者にされる、この経験を持っていない者がいるでしょうか。不条理は誰もが直面する問題です。だから不条理をどう越えるのかは人生の鍵となるのです。昨日は3.11を迎えました。どうしてまじめに生きている人がこのような経験をしなければならなかったのでしょうか。東北に住む私たちはこの問いに直面したはずです。不条理の問題は避けて通れないのです。単に不条理のメカニズムをつきつめるだけではなく、それを越える生き方、不条理があってもそれに勝利していく道はないのでしょうか。それを三回の説教に分けて聖書に学んでいきたいと思います。
そもそも不条理とは何でしょう。なぜこの世界に不条理が入ってきたのでしょうか。その答えは創世記3章にあります。最初の人間アダムとエバは一方的に神に背いて罪を犯しました。アダムが自分の罪の責任を問われた時、彼はエバを指して「この女」(11節。責任転嫁の代名詞と言われる)が悪いと言いました。要するに「この女」という言葉が明記されており、明らかにエバのせいにしたということが動かせない事実として書かれているということです。アダムは明らかにエバのせいにしました。さらに、エバを自分の妻として連れてきたのは神なので究極的には神が悪い、と言ったのです。アダムは自己防衛のために「エバが悪い、そしてエバを連れて来た神はもっと悪い」と二重の責任転嫁をしたのです。ここに人類で最初の不条理が見いだされます。何も悪くない神が悪者になりました。一番悪くない神が一番悪い者にされてしまったのです。これが罪なのです。罪は不条理という結晶をもたらすのです。不条理という言葉は幅があります。しかし、聖書の言う不条理はどのようなものでしょう。悪くない者を悪者にする…これが聖書の言う不条理です。そして不条理には二次災害があります。悪くないのに悪者にされると何が起こるでしょうか。そこには当然、敵意が生じます。悪者にされた方は怒りや憎しみを抱きます。場合によっては復讐が生じるでしょう。この世界に不条理をもたらし、互いに憎み合うように仕向けることが悪魔の戦略だったのです。この世界に罪をもたらし、不条理の痛みを拡大し、互いに憎み合う、敵意の混乱を引き起こす。こうすることによって神に恥辱を与える、これが悪魔の戦略なのです。
不条理の起源は「罪」にあります。
私たちはここで人生の前提を入れ替えることを求められます。私たちは不条理を経験し「私は悪くないのに…」と苦しみます。それがあたかも起きるはずがないことが起きてしまったかのように苦しみます。しかし、聖書は、人間が罪を犯して以来、不条理は避けられない事となりました。この世界そのものが不条理の場所となったのです。私たちは世界観を変えられます。当たり前のように不条理に直面する世界になってしまったのです。だから、不条理に対しての明確な解決と、それに勝利する道を絶えず持っておく必要があるのです。
Ⅱ そのアダムに神は御子を約束した(原福音)
アダムによって悪者にされた神ですが、このアダムにどのように答えたのでしょうか。神は驚くべきことを言いました。それは、アダムとエバの子孫に彼らを救う救い主が生まれるという約束でした(15節。原福音)。この子孫とは、イエス・キリストに外なりません。神はキリストを人類に与え、人類の罪を赦し、また悪魔の支配から解放して下さるというのです。この対照コントラスは際立っています。人間は悪くない神を悪者にしました。しかし自分を悪者にした人間のために神は御子を与えると約束したのです。
神は不条理ゆえの憎しみに支配されません。どんなに悪者にされても静かにキリストを与える約束をしました。他者を悪者にして自己防衛をせずにはいられなくなっているアダム。神を悪者にして必死に自分を守ろうとしているアダム。そのアダムに対して怒りを覚えるのではなく、こうせざるを得なくなっているアダムへの憐れみにあふれたのです。そしてその答えはイエス・キリストを与えることだったのです。神は不条理ゆえの敵意に巻き込まれることなく、むしろその悪しき悪魔の戦略を聖なるかかとで踏み砕いてくださるのです。主は不条理への勝利者です。不条理の上を行く方です。
不条理の起源は罪です。不条理の問題は即ち、罪の問題です。罪の問題である以上、これを扱える方はひとりしかいません。ただ神だけが、神の御子だけが罪を扱うことが出来るのです。私たちは不条理の問題を自分で扱うのではなく、この神の御子に任せていくように招かれているのです。いかなる不条理の問題であれ、主イエスはその聖なるかかとで踏み砕いて下さいます。
今、不条理の問題で苦しんでいなかったでしょうか。この世には二つの痛みがあります。悪くないのに悪者にされる痛みと、悪くない人を悪者にしてしまった痛みです。悪くないのに悪者にされた悔しさは筆舌に尽くしがたいものでしょう。そして、自己防衛のために他者を悪者にして逃れた惨めさ、その恥ずかしさや負い目もまた筆舌に尽くしがたい痛みです。いずれの痛みも主は分かって下さっています。不条理の問題を主イエス・キリストに委ねてみてください。神は不条理の問題の上を行く勝利者です。そしてこのお方だけが不条理―罪―を本当の意味で正しく取り扱うことが出来るのです。主イエスに信頼してみてください。あなたの不条理の真ん中に主イエスを迎えてみてください。
主イエスはそのかかとを悪魔に噛まれると15節にあります。これは深い示唆を与えます。主イエスも不条理を食らい、悪者にされました。しかし、その不条理を越えて悪魔の頭を砕いたのです。私たちキリストの側に立つものも同じようにかかとに噛みつかれる経験をします。つまり、主イエスを信じれば不条理を全く経験しなくなるのではありません。不条理は経験するけど、その中で圧倒的な勝利者となる主イエス御業を体験することが出来るのです。不条理はある。だけど、不条理の中で働くイエスの御業にあずからせて頂けるのです。
この世を生きるということは不条理の問題がつきまとうということです。周囲に不条理で苦しんでいる方はいないでしょうか。皆さんは不条理の上を行く方を知っている者、先に出会った者として、隣人のことをとりなしましょう。そして聖霊の導きの中で、不条理への勝利者イエス・キリストを紹介させて頂きましょう。
