今週の礼拝説教アウトライン 2022年5月22日 銭谷幸器 

更新日:4 時間前

2022/05/22 仙台南吉成キリスト教会 主日礼拝 説教:主任牧師 銭谷幸器

「心に福音、生活に律法②」ヨハネ8:1-11       アウトライン

Ⅰ 友としての律法

 友というのはありがたいものです。特にこの人生をどのように歩んだらいいのか助言をしてくれる友は本当にありがたい友と言えるでしょう。私たちは誰でもこのような友を持つことが出来ます。その友の名前は「律法(十戒)」です。


 主イエスのもとにひとりの姦淫の女が連れて来られました。主イエスは彼女の罪を赦し、これからは罪を犯さないようにと命じます。ここに「心は福音、生活は律法」という信仰と生活のモデルを見出します。主イエスは律法の責めに引き裂かれている彼女の心を解き放ち赦された喜びで満たしました。そして彼女に「今からは決して罪を犯してはなりません。」(11節)と命じました。罪とは律法があることで生じます。法が無ければ違反もありません。だから「罪を犯すな」ということは「律法を守りなさい」ということです。主イエスは彼女の生活に律法を課したのです。彼女はかつて律法を無視して生きていました。今や主イエスによって罪赦され、今度は喜んで従うべき基準が与えられたのです。律法は今や彼女に生き方を教えてくれる「友」となったのです。ここに心は福音ー罪の赦しーでいっぱいになり、生活は律法の規律があるという信仰と生活のモデルが見いだされます。


 では、具体的に「律法」の中に生活を築くとはどういうことでしょうか。それは、十戒に従う生活です。十戒は律法の代表であり、神のみこころそのものです。十戒は単に「クリスチャンの」生きる基準ではありません。十戒は創造の秩序、すなわちすべての人に、人間として、当たり前のこととして要求されていることです。この世界を創造した神が定めた、人としてのあるべき姿を教えたものです。


 十戒に従えば確実に神を喜ばせることが出来るのです。「律法なき生活」の問題があります。律法が無ければ自分の行為が神を喜ばせることになっているのかどうか確証を持てません。「俺は俺なりに俺のタイミングで俺のやり方で、俺が考える神の喜ぶことをしている」ということになりかねません。ただの自己満足に陥ることもあり得るでしょう。十戒は偉大です。何をすれば神が喜ぶのかを教えてくれる友なのです。


Ⅱ 昨日の敵は今日の友―主イエスの功績―

 最後に覚えたいことは、十戒はかつてこの姦淫の女性や私たちを滅びに断罪する恐ろしい敵だったということです。その十戒がいまや親しい友となっています。なぜこんなことが起きたのでしょうか。

 中学校の時、部活の大会で敵として戦った中学校の子が同じ高校になりました。かつては敵だったのですが今や頼もしい仲間になりました。昨日の敵が今日の友となったのです。


 かつて律法は私たちの罪を責め、私たちを断罪する恐ろしい存在でした。律法は私たちを滅びに定める恐ろしい存在でした。しかし、今やその律法が私たちの生き方を教えてくれる親しい友となったのです。


 ここにあるのは十字架です。確かに律法の責めるように私たちは罪人で滅ばなければならなかったのです。しかし、この律法の断罪を主イエスがその身に引き受けて下さったのです。ここに律法の牙は抜かれました。律法はもはや私たちを滅びに断罪する恐ろしい敵ではなくなったのです。主イエスの十字架にゆえに、律法は私たちを断罪するものではなく、私たちの人生を導く友人となったのです。主イエスによって律法の断罪は終わりました。もう律法は敵ではありません。この親しい友に安心して従って生きましょう。


 今日、どう生きていったらいいのか分からない人がいるでしょうか?自分の生き方に確信が持てない方がいるでしょうか?目の前に選択しなければならないことがあり、どちらを選んだらいいか分からない方がいるでしょうか?「神の御心が分かりません」という方がいるでしょうか?ぜひもう一度十戒を開いてみてください。十戒は神の御心そのものです。私たちどうしたらいいのか、確実に教えてくれる友です。十戒を祈りつつ深く思い巡らし、生活に当てはめてみてください。そこには確実に神の喜ぶ生活が生まれます。


 心は福音でいっぱい。生活は律法による規律と秩序ある生活を送っている。このモデルを私たちの教会の不動の信仰と生活のモデルとしていきましょう。




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