宗教改革記念礼拝 説教アウトライン 2022年11月6日、13日 

更新日:11月20日

11月6日と13日にマルチン・ルターの宗教改革を記念して宗教改革記念説教を行いました。

この礼拝説教の音声は「説教視聴サイト」で聞くことが出来ます。本アウトラインと合わせてぜひお聞きください。説教を聞く皆様の上に福音の恵みが豊かにありますように。



2022/11/06 仙台南吉成キリスト教会 主日説教:主任牧師 銭谷幸器

説教「洗礼との一致(前半)」 ローマ書6章1-5節 アウトライン


Ⅰ 洗礼に示された展望~自分は何に向かって生きていくのか~

 今日の主題は「展望(パースペクティヴ)」です。ジグソーパズルやプラモデルを完成させるには設計図や完成図が必要です。今取り組んでいることが何につながっているのか。その展望があってはじめて私たちは前に進めるのかもしれません。では、教会に来ることはいかがでしょうか。私たちは教会に通うことで何になっていくのでしょうか。どのような自分になっていくのでしょうか。教会に来る人は自分や何かが変わることを望んでやってきているはずです。実はその答えの鍵を握るのが「洗礼」なのです。洗礼はまさに私たちの信仰と生活の展望を現しているものなのです。


 聖書に自分たちの生き方や進むべき道~展望~を見失っている人たちがいたことが登場します。ローマ教会の人たちです。使徒パウロはローマ教会に手紙を書きました。当時、一部のクリスチャンたちは自分たちの展望を見失っていました。イエス様が十字架で罪を赦してくれるのだから自分たちは罪を犯しても構わないと考えていたようです。パウロは彼らを叱責します。あなたたちは「洗礼」を忘れている、と。洗礼はただの水を被る象徴的な儀式ではありません。洗礼を見失うとき、私たちは自分のいのちの方向を見失うのです。


 では、洗礼を受けるとどんないいことがあるのでしょうか。洗礼は私たちとイエス様をつなげます(ロマ6:5)。イエス様とつながるということは、古い罪の自分がイエス様の十字架の死とつながることを意味します。そしてイエス様の復活とつながって、新しいいのちに生まれ変わることを意味します。洗礼において古い自分が死に、新しい自分に生まれ変わると言うことが生じるのです。


 多くのクリスチャンが誤解しているのがこの点です。多くの人たちが「聖書を参考にして、古い自分を改善しなければならない」と考えています。しかし、聖書は古い自分は改善すべきものではなく(そもそも改善出来ない)、終わっていくべきものだと教えています。聖書に従って罪深い自分を改善し、いくらなりともまともな人間にならないといけない。そう思って頑張っているのです。しかし、聖書は、古い自分は改善すべきものではなく死ぬべきものだと教えています。そして新しいいのちは贈物として頂くものなのです。


 私の知人のお父さんは白バイの警官でした。実は白バイの警官になる前は、暴走族の切り込み隊長をしていたとのことでした。警察にお世話になる中で改心して警官になったそうです。この暴走族のバイクを例に考えてみましょう。今まで不法に改造し、不法な走行をしてきた暴走族のバイク。洗礼は、この暴走族のバイクを「改善して」白バイに作りかえることではありません。悪いことに使っていたバイクをどうにかこうにか改善して良い白バイに変えていくのではありません。この暴走族のバイクは廃車にするのです。そして暴走族のバイクに関係なく白バイを新たに作るのです。この白バイは暴走族バイクの延長線上にあるものではありません。連続性のないものです。あくまでも暴走族のバイクは終わったものであり、それを無関係につくられたのが白バイです。洗礼はこのようなことに似ています。古い罪の自分、正しくない罪の自分。この古い自分を聖書を参考にして改善してどうにかこうにか良い人間になるということではないのです。古い自分は十字架で死に至らしめられます。そして古い自分に関係なく、新しいいのちが与えられます。このいのちは罪の自分と関係ないいのちです。罪を犯したこともないし、犯す必要もない、罪に関係のないいのちです。もしせっかく作った白バイで「よし、これで暴走行為をしよう」と考えたらおかしなことです。なぜ良いことの目的で作った白バイを悪いことに使わなければならないのか。私たちの新しいいのちも同様です。せっかく神様が新しいいのち、罪に関係なく生まれたいのちをくださったのに、どうしてそのいのちをしなくてよい「罪」のために使う必要があるのでしょうか。だからクリスチャンが「どんどん罪を犯そう」と考えているのは間違っているのです。洗礼を受けるということはもう罪を犯すことはやめて、神が喜ばれる生き方をすることなのです。古い自分は死んで新しい自分に生きる。これが私たちのいのちの展望なのです。


 あなたは嫌な自分、自分だけが知っている醜い自分、汚い自分に苦しんでいなかったでしょうか。洗礼によって主イエスと結ばれるとき、その自分、その古い自分は主イエスが死に至らしめて下さいます。そして新しいいのちを下さいます。その自分は罪のない自分です。自分がこのように生きたい、そう願った神と隣人を喜ばせるために生きるいのちなのです。


Ⅱ 洗礼に一致して生きる

 宗教改革者ルターは牧師でした。そしてこのルターは牧師として、民衆の魂がどのような方向に成長していくものなのか、その展望をしっかりと持っていました。中世の教会はラテン語で礼拝が営まれていたため、民衆は聖書のことを何も知りませんでした。教会で司祭が話していること、教会でやっている儀式…それが何のためか分からないでいたのです。ルターはこの現状を把握しました。洗礼は受けているけど、信仰のことも生活のこともほとんど何も知らない…。つまり、ほぼゼロから民衆の魂を教育しなければならなかったのです。そこでルターは小教理問答書を書きました。聖書の要約であり、民衆の信仰と生活を形成するためのガイドラインです。この小教理問答書を見ると、ルターが目的をもって、展望を持って信徒を育てようとしていたことが分かります。ルターはローマ書6章から教育の展望が「洗礼」であることを正確に捉えました。信徒が洗礼に一致して、古い自分に死に、新しいいのちに生きる。そのことをよくとらえていたのです。信徒が罪から解き放たれて、家庭と教会と社会において隣人愛に生きるようになる。それを展望として持ちつつ民衆の魂を教育したのです。洗礼は魂に確かに方向性をもたらしていることを確信していたのです。


 今、あなたは自分が信仰生活が長いのにちっとも成長していないと投げていないでしょうか。何かが変わることを期待して教会の門をたたいたのに、何も変わらなかったと嘆いていないでしょうか。そして信仰を持ったけど自分は変わることが出きなかったと嘆いていないでしょうか。諦める必要はありません。私たちは変わることが出来ます。私たちが聖書を参考に自分を改造するのではなく、洗礼が私たちを変えていきます。洗礼を想起する時、止まっていた時が動き出します。だからこそパウロはローマ教会に洗礼を思い起こし、洗礼を受けた事実に帰るように励ましているのです。自分が洗礼を受けたものであること、洗礼によって古い自分が死に、新しい自分に生きる。そのことを想起する時、新しいいのちは再始動し始めるのです。


 元来、プロテスタントの教会は、洗礼を不可欠なものとして捉える教会として始まりました。洗礼は受けても受けなくてもどっちでもいいものではありません。洗礼はただの水ではありません。洗礼はただの象徴ではありません。ローマの6章は明らかに効力のあるもの、私達をイエスにつなぎ、古い私たちを殺し、新しいいのちに生まれ変わらせるものであると教えています。もし、教会や牧師が洗礼を軽んじ、洗礼を忘れるなら、その教会は魂の展望を見失うことになります。目の前の信徒たちが何に向かっていきていくのか、何を展望として成長していくのか、その路線を見失うことを意味するのです。

 だから洗礼をあってもなくてもどちらでもいいものと考える時、すでに教会は進むべき道を見失うことになるです。私たちの教会は、洗礼を常に意識し、洗礼を無くてはならないものとして貴びましょう。そして周囲の人に洗礼の恵みを伝えるまことのプロテスタント教会であり続けましょう。


2022/11/013 仙台南吉成キリスト教会 主日説教:主任牧師 銭谷幸器

宗教改革記念説教「洗礼との一致(後半)」ローマ6:12-14

Ⅰ 洗礼との一致①古い自分に死ぬ

 私たちは教会に行き、洗礼を受けると何者になっていくのでしょうか。展望はとても大切なものです。

 15年前に米国の神学校に留学をしていましたが、生活の中で難しかったのは床屋さんです。自分がどういう髪型になりたいのかを英語で説明しなければなりません。ある時、一生懸命「こんな髪型でお願いします」と伝えました。相手が"I see!"と言ってくれたので上手に伝わったと思いました。次の瞬間、床屋さんが巨大な芝刈り機のようなバリカンを持ってきたのです。このバリカンで刈られたら髪の毛を根こそぎ持っていかれてしまうと思い、慌てて止めました。私の伝えた注文は伝わっていなかったのです。私の「こういう髪型にしてほしい」という展望と、彼の「こういう髪型にしよう」という展望は異なっていたのです。

 そこで次回から写真を持っていくようにしました。「こういう髪型にしてください」と伝えると、お互いに展望を共有できたのです。お互いに安心して、同じ姿を目指せたのです。今日のテーマは「展望」です。私たちがどういうクリスチャンになっていくのか。それを考えたいのです。

 教会にやってくる人は「自分はこうなりたい」「こういうクリスチャンになりたい」という一種のあこがれをもってやってきます。皆さんは、自分がなりたかったクリスチャンになれたでしょうか?自分はこうなりたくないと思っていた自分になってしまったということはないでしょうか?実際のところ、神様は私たちをどのようなクリスチャンにしたいと思っているのでしょうか。ローマ書の6章はその「展望」を教えているのです。私と床屋さんの話のように神様と私たちが一致して目指すべき姿が描かれているのです。

 

 ローマ教会の中に間違った展望を持っていたクリスチャンたちがいました。彼らは「主イエスの十字架によって罪が赦されるのだから安心して罪を犯そう」と考えていました。平気で罪を犯すクリスチャンになろうとしていたし、なっていたのです(ローマ6章1節)。使徒パウロはこれは「間違っている」といいます。そしてその間違いの根っこにあるのは「洗礼の意味を分かっていないから」(6章2節)だというのです。使徒パウロは、私たちの目指す姿は「洗礼」に現わされていると言います。洗礼によって主イエスと結ばれます(6章5節)。その結果、古い罪の自分が死に、新しいいのちにあずかるのです。古い自分を改善して良い人になるのではなく、古い自分はイエスの死とつながったことで終わりになります。そして古い自分と連続しない新しい自分に生まれ変わるのです(6章3-5節)。


 しかし、13節を見ると不思議なことが書いてあります。自分の内に残る古い自分に支配をされるな、というのです。パウロは、洗礼によって古い自分は死んだと言っていたのはなかったでしょうか。どうして死んだはずの古い自分が私たちの内側にさも生きて残っているようなことをパウロは言っているのでしょうか。現実に私たちは自分の内側に罪深い自分が残っているのを見出します。一体、私たちの内の古い自分は生きているのでしょうか。死んでいるのでしょうか。

 ひとつの分かりやすい例があります。以前、ある小説に東南アジアの農村の風景が描かれていました。その村では、鶏を料理するために殺すことがあります。村人は鉈で鶏の首を落とします。首を切られた鶏はすぐに倒れるのかと思うとそうではありません。首を落とされた鶏は(びっくりするのか?)しばし羽ばたいてから力尽きるというのです。首を落とされて確かに死にました。しかし惰性で身体が動いているのです。洗礼はこれに似ているかもしれません。主イエスの十字架によって古い自分は確かに死にます。主イエスの十字架で死にました。しかし、古い罪の自分はこの鶏のように、完全に動きがとまるまでしばしの時間があります。だから、この地上の生涯においては自分の内側に死んだはずの古い罪がいることを見出します。死んだけど生きている。死んだけど生きているように見える。それが私たちクリスチャンの内側に罪を見出してしまう理由なのです。この罪は私たちが地上の生涯を終えるまで私たちの内側に存在します。しかし、すでに処理をされたものです。


 今、皆さんは自分の内側に罪があることに失望していなかったでしょうか。「クリスチャンの自分にどうしてこんなに醜い罪があるのか?」「何十年も信仰生活を送っているのに、なぜなおも罪深いのか?」と悩んでいなかったでしょうか。大丈夫です。私たちの内側に罪があるのは異常なことではありません。確かに醜い罪があります。でももう「処分済み」です。主イエスによって殺され、間もなく力尽きて、完全に私達から姿を消すものです。むしろ自分が罪深い、と自分を過度に責め続けないことが大切です。その古い自分を主イエスがすでに扱ってくれたこと、やがて自分の内側から完全に除去されることをむしろ感謝したらよいのです。これが真の悔改めです。罪深い古い自分の存在を認め、それを殺してくれた主イエスに信頼するのです。


 そして、その古い自分に支配されず、影響されず、エネルギーをかけないことが大切です。パウロは古い自分に支配を受けるな、と言います(6章13-14節)。船を例に例えましょう。もう沈んでいくことが決定している船があるとします。この船は沈むと分かっているのに、一生懸命穴をふさごうとしても、その作業は無駄になります。沈む船に最高の設備を備えても無駄になります。沈む船にかける時間、お金、労力はすべて無意味になるのです。すなわち、古い人はもう死んでいるのに、もう終わっていくのに、その古い自分に人生の大切な時間とお金と労力を注ぐことは無意味なのです。クリスチャンになっても罪を犯し続けるのは、この死んでいく自分にすべてを注いでいる人に似ています。終わっていく自分にエネルギーをかけて、罪を続けることは無意味です。だから罪をやめましょう。これが洗礼に一致する生き方なのです。


Ⅱ 洗礼との一致②新しい自分に生きる

 古い自分にエネルギーを費やさないのと併せて大切なのは、自分自身の手足を神に捧げることです(13節)。具体的には隣人を愛することです。神とつながった新しいいのちは隣人愛に生きるいのちなのです。


 終わっていく自分に自分の労力やお金や時間をかけるのではなく、終わらない自分すなわち永遠に続く新しい自分にすべてを注ぐべきなのです。先ほどのたとえで言えば、沈む船ー古い自分ーに設備投資をするのではなく、これから乗っていく船、永遠に沈むことのない新しい船―新しい自分―に設備投資をするのです。神とつながったいのち、神と隣人に仕える新しいいのちに生きるべきなのです。


 宗教改革者のマルチン・ルターはそのことを聖書から鋭く見抜きました。今回、私の修士論文にまとめました。ルターは優れた牧師でした。右も左も分からないでいた信徒たちを教育するに当たり、明確な展望を持って牧会していたのです。ルターはローマ書の6章から、洗礼こそ神が私たちに対して持っている展望(パースペクティヴ)だと見抜いたのです。主イエスを信じて洗礼を受けた者は、古い自分に死に新しい自分に生きる。先ほどの私と床屋のように、ルターは神様の展望を持って信徒に関わろうとしたのです。 


 具体的に、信徒が自分の手足を義のために捧げ、新しいいのちに生きるとはどういうことなのだろう(6章14節)。ルターはそれは「職務」に生きることだと結論付けました。


 神はひとりひとりに持場立場を与えています。家庭と教会と社会において与えられた職務があり、その職務そのものが誰を愛せばいいのかを教えてくれています。


 クリスチャンになったから新しい使命を探さなくては、と意気込まず、神が自分に与えて下さった身分(職務)において、神が愛しなさいと言った人を愛していけばいいのです。家族を愛せばいいのです。同じ教会の兄姉を愛せばいいのです。職場の人々や地域の人々を愛せばいいのです。私たちの人生は、「何をなしたか」で量られるものではありません。「誰を愛したか。どう愛したか。」これが人生の価値なのです。多くの業績を上げても「私は自分だけを愛してきて、他者を愛することも他者に愛されることもなかった」という人生であればこんなに寂しいものはありません。人生を閉じる時に「私の人生は、神様が愛しなさいと言った人を愛した人生だった」と言えればそれで充分です。そしてそれこそが真実に「新しい人に生きる」「手足を義のために捧げる」ということなのです。


 今日、皆さんはこれからの人生、どのように生きたらいいのかを考えていなかったでしょうか。この人生、残りの時間で何をしたらいいのか、と考えていなかったでしょうか。洗礼がそれを教えてくれています。洗礼に一致する時、そこには真実な人生があるのです。


 洗礼は罪に生きることをやめ、隣人愛に生きるという人生の展望そのものなのです。洗礼と一致しましょう。古い自分に死んで、罪を犯さない。新しい自分において隣人を愛する。神はかけがえのない人生を生きさせて頂きましょう!





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